じざいやでは、辻が花で魅せるオリジナルの羽織を折々に作ってきました。

その一部を、まとめたページはこちら。

辻が花、という浪漫溢れる美しい名前を持つこの染は、じざいやオリジナルの羽織でもよく使っている技法です。

その名称や発生、展開などに深い謎を秘めています。ただ、簡単に言ってしまえば、室町時代中期から江戸時代初期までの間に制作された「絞り染」の名称です。

絞り染は世界各国にあり、日本でも6・7世紀頃には既に行われていました。糸で布地を強く括ることにより、染料が入り込まない部分を作る、防染という簡単な原理によるものです。初期の絞り染めは、絞りのしぼ(しわ)は重要視していませんでした。防染の為の、また染め分けの手段としての絞り染めであったために、染め上がった後の凹凸は伸ばしてしまうのです。初期は、麻に単色の絞り模様で、絞った後に柄を描き足しました。まさに辻が花がそうですね。しかし、江戸期に入ると、象徴的な布面のしわを大切にし、凹凸を残すことで手仕事であるという付加価値をつけ、高級品であることを強調するようになります。絞りによって防染することで、次第に色毎に、絞り、染めを繰り返す多色染めとなり、複雑な花模様を表すようになりました。絹地に染められるようになると、金箔や刺繍も加えられ、繊細にして華麗な染色に発展します。

徳川期の絞りは、裕福な町人の文化のなかで隆盛をみせました。手間の掛かる総絞りの着物は費用を惜しまない町人の財力の豊かさを示し、芝居と遊里は流行の発端でした。

華麗な小袖は、幕府の大名、高級官僚、宮廷の公卿、裕福な町人、そして遊里の太夫たちに好まれたのです。

江戸時代中期なると、絞り以外の技法も高度になり、絞りは色の染め分けだけの役割で、細かい模様は刺繍や摺箔で表現されるようになります。

この様な華やかな流行に対して、天和三年二月に発せられた「總鹿の子禁止令」。
この禁令に伴って紋様の表現方法も変わらざるを得なくなり、「友禅染め」という、新しい紋様染めが現われることとなっていくのです。

友禅染の発達につれて、辻が花はその存在意義を失い、自然に消滅へと向ってしまい、途絶えてしまったのです。

そもそも 辻が花、という名称の理由すら定かでなく、15世紀半ばには存在していたとされる辻が花。

秀吉が小袖で着用していたイメージがありますが、武家から町人まで、その技法の細かさに差があっても、広く用いられていたもののようです。

数百年前の辻が花については技法の文献もなく、存在する布から読み解くしかないのです。友禅の糸目糊が無かった時代に柄の境界を作るために絞る、という防染としての絞りの役目が第一だったはずです。

細かい柄は、後から墨を使って描き足されました。絞った後は解き伸ばされ、現在の鹿の子絞りなどのように生地の凹凸を楽しむ絞りではありませんでした。

昭和の時代に、久保田一竹氏によって蘇ったと言われる辻が花です。久保田氏の技法は、先に友禅で柄を描き、柄に沿って絞りを施すものが多く、かつての辻が花とは順番が逆です。

現在の「辻が花」と呼ばれる染織には、まず、染めの柄ありき、のものが多くなっています。

数百年の昔に生まれた技法である辻が花ですが、古臭くなることはなく、おおらかにして優雅な雰囲気を漂わせています。