今日は立冬。暦の上では冬ですし 空気も冬っぽくなってきました。
袷を着ましたよ。大島紬です。袷の中でもサラリとしていて軽いので、真綿の袷の前に着ることが多いです。
最初 暑いかな?とも感じましたけど、着ていたら馴染んで、袷でいいや、と思えました。
八掛。この名称は、関西では裾回しと呼ばれることが多いと思います。
名の通り八掛は、前・後の身頃の四枚と、衽(おくみ)に二枚、衿先につける二枚を加え、つごう八枚に裁つので こう呼ばれます。実際は、袖口にも共布を用いることが多いので、そうすると十掛になっちゃいますが。
男物や子供には、胴と裾が同じ通し裏を用いるのが多いですが、女物は胴裏と八卦を別布で用いるのが一般的になっています。
しかし、古くは女物も通し裏でして、八掛と胴裏が分けて用いられるようになるのは、江戸中期以後のことです。
この時代にしばしば発令された奢侈禁止令に対抗し、洒脱で富裕な町人が、両褄の裏や裾裏など目立たぬところに凝った文様や裏地をつけ「裏文様」と呼んだものが八掛のルーツとなっています。
代表的な文様の付け方は、両褄裏と裾裏に手のこんだ友禅や刺繍をほどこし、表にはほんの1寸ほどの文様を覗かせた無地の着物でした。つまり、表面は至って地味、かつ素朴で、裏は派手に贅を凝らすと言う「裏勝り」と呼ばれる趣向だったのです。
当時しばしば出された奢侈禁止令に対する富裕化した町人の無言の抵抗・皮肉の現れ、ということでしょう。
八掛が今のように簡素な無地となるのは、江戸後期から明治の近代化にともない庶民生活の向上し、庶民がきもの市場にどっと参入した時からです。
庶民には八卦にこだわるほどの財力はなくとも、裏のある着物への憧れはあります。生活の向上によりそれを着ることが出来るようになり、木綿の単衣ばかりだった庶民の着物も絹の袷へと変化していったのです。
袷の着物を仕立てる時、八掛選びは楽しみの1つです。江戸時代の豪商のような豪華は裏は望めなくとも、お洒落で、かつ汎用性の高いものがいいですよね。
八掛の色で着物全体のイメージが変わりますので、ちょっと並べてみます。色だけフォトショップで替えたのであまり綺麗ではないですが、色によって着物のイメージが変わる例をご覧ください。
着物は、本場大島紬、雪輪に橘です。
お母さんから貰った大島には大抵こんな臙脂や赤い八掛が付いていましたね。泥とは相性の良い色ですし、昔は未婚の女性には有無を言わせず赤、既婚で臙脂、年齢が上がると辛子、とお店側で勝手につけることが多かったのです。
なので、この辛子系の八掛の大島をお持ちの方も多いと思います。
2枚目の大島とかですと、緑系も結構使われます。
鱗柄。
八掛けを交換するだけで着物が見違えるようになります。お仕立やお直しの時、お気軽にご相談ください。
11/16(土)17(日)、まだお席があるそうです。